村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)現代文学の旗手として神格化されている村上春樹。その村上によって書かれたベストセラー『海辺のカフカ』を精読し、その危うい内容、危険な役割を綿密なテキストクリティークで論証した本。『海辺のカフカ』は「処刑小説」と断罪している。『海辺のカフカ』の危険な内容と言うのは、要約すれば、(1)人間がじてはいけないこと、すなわち「人殺し」と「近親相姦」の肯定、(2)個人的動機による殺人と「戦争」や「ホロコースト」とが等価とみなされ、それらを<いたしかたないこと>としてしまう文学的背信、(3)一貫した女性嫌悪(ミソジニー)と「女性であることが罪」とする視点(「精神のある人間として呼吸している」「女」の存在の抹殺)、(4)歴史の否認、否定(史実を読者に一度想起させたうえでその一連の記憶を物語り内部で消去していく巧妙な手口)、などである。
著者の言葉を借りれば「分身の二重化をほどこされた偽オイディプス物語の枠組みを持ち、(バートン版)『千夜一夜物語』から、女性の性的欲望に対する不信を基にした男性側の女性嫌悪(ミソジニー)を引き継ぎ、フランス・カフカの『流刑地にて』の処刑小説という主題を流用した『海辺のカフカ』という小説は、これら複数の先行する文学テクストを、夏目漱石の『義美人草』を媒介に結合し、『坑夫』を通じて、記憶とその想起をめぐる自我心理学的小説の方向性を持つかのように装いながら、小説という表現手段を処刑する」構造になっている(p.178)、ということになる。さらに「昭和天皇ヒロヒトの戦争責任が密かに小説のなかで免責され」(p.224)なかったばかりか、「侵略戦争の中心的な責任を担うはずの、昭和天皇ヒロヒトを自力で裁かないで放置した」(pp.241-242)団塊の世代の限界も指摘している。わたしは『海辺のカフカ』そのものを読んでいないので分かりにくいところはあるが、著者の大方の指摘は正鵠を射ているのではなかろうか。
ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)とある大物芸能人が昔、
「ある女優さんの話なんだけど、その人は『この世界とは別のもうひとつの世界へ行き来することができる』って言ってて。
あっちの世界はこちらの世界とほとんど何も変わらなくて、瓜二つなんだけどあっちの世界では争いがなくてみんな幸せに暮らしてるんだってさ」
とテレビで喋っていた記憶があります。仔細は間違ってるかもしれませんが概ねこういう内容だったはずです。
読まれた方はご存知とは思いますが、この作品の中で主人公は似たような体験をしていきます。
個人的にその話とこの作品を頭の中で並べたとき――
その話は単なる作り話ではなく、
この作品は単なる物語ではないのではないか、という疑問に駆られてしまいます。
作品中ほぼ主人公の一人称で『性質も場所も時代もまったく異なる複数の物事(それ自体が随分と現実実がなく、荒唐無稽な話も少なくない)』聞いたり経験していきます。
全く関連性の無いそれらに対し、主人公は整合性に欠けているのを自覚しながら、説明のつかない、証明しようがないなにかを見出し、あるはずのない共通項を拾い上げ、縫い合わせていく。ある場所に辿り着くために。
他の評価の低い方のレビューを見て、まぁしょうがないかもな、という感覚もあります。
無茶苦茶だし気取りが鼻につくからなぁw
でもこんな表現ができる作家さんってきっと滅多にいないでしょうね。
一部の後半では読んでいて体の震えが止まらなくなりました。本を読んでいてこんな経験は人生初(最後かも)でした。
見えるものだけが、科学で証明されるものだけが全てではない、と思っている方には是非読んでいただきたいです。
ちなみにはじめの大物芸能人は誰かというと『昼メガネ』と再ブレイク芸人にあだ名をつけられていた方ですw
以上、長文失礼しました。
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